Richie Hawtinって悶えるよね


Plastikman - Pakard

 

ひとまずこれを聞いてみてください。

「これのどこが良いか」と言われてみると、やはり洗練された空間にいるような感じになりませんか?笑

 

Richie Hawtinさんという人が作った音楽で、Plastikmanという活動の中の一つです。DJやクラブ系と思われる方も多いのですが、現代音

楽の理論からいえば、これはミニマルミュージックというもので、音の高低の動きを最小限に抑えて、決まったパターンを繰り返すというものです。

 

たぶんハイブランドのお店に行くと、流れていたりします。

個々の音楽を分解して、再構築するといってみるもののの、、、難しいですね。

というか単純に、こういう音楽ってお祭りのときに、リズムに乗り、士気を高め、トランス状態になる感じありますよね。

 


Richie Hawtin & Marco Carola @ Amnesia Ibiza Closing Party [Ibiza]

 

お祭りっていいよね

今日は「人生の約束」という映画を見ました。

一つのお祭りに関連して、様々な人が約束をしてそれを守るという素敵なお話でした。

 

そこで登場するのが、江戸時代から約350年続く射水の「新湊曳山祭り」なのですが、簡単に言えば、大きなお神輿を引くというものです。

 

地方のお祭りというのは、正直あまり知る機会がいないですよね。僕は祇園祭と徳島の阿波踊りぐらいしか言ったことがないのですが。。

祇園祭は、動く美術館といわれるほど、綺麗な山鉾(やまぼこ)というモノが動き回るのは本当にきれいですよね。

 

祭りという文化は、地域の文化、更にはその土地の神様、そういうものが「つながった」ものだというらしいです。

京都で祇園祭が開催されたのは、1000年以上前に、京都の人口が増えだし、平安京が高温多湿な場所にあったから、マラリアなどが流行したからと言われています。。

万葉集と古今和歌集について

自分の気持ちをどう表現しますか。1000年前は歌でしたね。

皆さんも今のお気持ちを表現してみればどうでしょうか笑

 

万葉集古今和歌集の違いは何か、と言われれば、

万葉集はストレートの表現であり、古今和歌集は想像力を掻き立てる」という点だと思います。自分の言いたいことを、技巧的に、絵画的に言うかどうか。というところですね。

 

万葉集から中臣女郎

「直に逢ひて見てばのみこそ 魂きはる 命に向ふ 我が恋やまめ 」

非常にストレートですね。。

 

一方、古今和歌集というと、

「道の辺に 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ 立ちどまりつれ」

風景がイメージできる気がしますよね。笑

 

 

美しさとはどこにある。

雪で大学が休みであった。家で北原白秋萩原朔太郎を読んでいた。

「月に吠えらんねぇ」という面白い漫画があり、これに影響されて最近近代詩を読み漁っているわけだが。

(なぜ朔太郎の氷島が、この漫画では否定的に扱われているか不思議でならない。この話はいずれ)

 

さてプラトンが思い切りのよい詩人嫌いということは、とても有名な話だ。

(プラトンの詩人追放論)

しかし自身も詩人になりたいと考えていたのがプラトンだ。

当時は、いわゆる近代詩とは異なり、美しさを歌ったものが多く、プラトンも確かに、ホメロスイリアスを繰り返し述べている。

 

ではなぜ詩人を追放しようとしたか?端的に言えば

「美しいものを見出すために作品を作り、そこに安らぎを求める」という姿勢が嫌いだった。

「これが美しい!見よ、我が作品を!以上!」という姿勢が嫌いだったんですね。美しさに謙虚ではない。

 

プラトンはしきりに「美しさ=作品」ではない。作品の一部が美しさを写すことがある。ある時には美しかったり、そうでなかったり。そういう不完全なものではなく、完全なものを求めよう。 => これが美のイデアと後世の人が読んでいるやつ。

 

美しさはどこにある。

作るなんて出過ぎた真似だし、

探すにしては西洋の探検家のような調子に乗った姿勢じゃ見つからないし、

どうやって感じますか。皆さんは。

 

(これ、すげー恥ずかしいこと書いてるんじゃねぇかな私)

 

これが日本という感覚の部分集合なのか

初投稿です。

ひとまず今月見たものをあげていきます。

建築関連が多かったです。

建築をその町の文脈に沿わせると謳っているフォスターに対して

フランクゲーリーは、既存の建物の99%はゴミである、みたいな言い方をしていて、ここまで対極に行くものかと思いましたね。

 

それと泉鏡花が好きな友達に連れてかれたバーで、室生犀星萩原朔太郎をもっと読み込んで、体で感じ取って欲しい、みたいに言われたので、もう一度なめ直すように読んでみました。

今だから思えるのですが、文字列も、絵画も、映画も、音声も。通ずる感覚ってありますよね。

 

例えば泉鏡花の「外科室」という小説があるのですが、これなんか、まさに、川端龍子のこの愛染という作品に似ている

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(画像データ from 足立美術館よりお借りしてきてます)

 

なんなら、山家集でいうところの、

花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に

という歌にも似ている。

というかこの微妙な感覚というのはなんだろう。それが日本人ということなのか。