美しさとはどこにある。
雪で大学が休みであった。家で北原白秋や萩原朔太郎を読んでいた。
「月に吠えらんねぇ」という面白い漫画があり、これに影響されて最近近代詩を読み漁っているわけだが。
(なぜ朔太郎の氷島が、この漫画では否定的に扱われているか不思議でならない。この話はいずれ)
さてプラトンが思い切りのよい詩人嫌いということは、とても有名な話だ。
(プラトンの詩人追放論)
しかし自身も詩人になりたいと考えていたのがプラトンだ。
当時は、いわゆる近代詩とは異なり、美しさを歌ったものが多く、プラトンも確かに、ホメロスのイリアスを繰り返し述べている。
ではなぜ詩人を追放しようとしたか?端的に言えば
「美しいものを見出すために作品を作り、そこに安らぎを求める」という姿勢が嫌いだった。
「これが美しい!見よ、我が作品を!以上!」という姿勢が嫌いだったんですね。美しさに謙虚ではない。
プラトンはしきりに「美しさ=作品」ではない。作品の一部が美しさを写すことがある。ある時には美しかったり、そうでなかったり。そういう不完全なものではなく、完全なものを求めよう。 => これが美のイデアと後世の人が読んでいるやつ。
美しさはどこにある。
作るなんて出過ぎた真似だし、
探すにしては西洋の探検家のような調子に乗った姿勢じゃ見つからないし、
どうやって感じますか。皆さんは。
(これ、すげー恥ずかしいこと書いてるんじゃねぇかな私)